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登場から60年あまり。トヨタ クラウンの歴史をヤフオク!で紐解く

第45回東京モーターショー2017、そして東京オートサロン2018の会場で披露されて約半年。ようやく15代目クラウンが正式発売となった。63年目の変革も気になるけれど、これまでのクラウンの偉大な軌跡も見逃せない。長寿ブランドの歴史と風景をヤフオク!の商品群から遡ってみようと思う。
安心と信頼のブランドは続いていく

安心と信頼のブランドは続いていく

ゼロ年代を軽く超え、21世紀というコトバはとっくに陳腐化。あろうことか2010年代もあと少しで終わりを告げようとしている現在からすると、太平洋戦争終了からわずか10年後の1955年はとんでもない昔のように思える。

テレビもラジオもクルマもそれほど走ってねェ当時、今とは比較にならないほど世界的にアウェイな状況だったニッポンで1955年、”純”国産車としてクラウンは誕生した。
それは”純”の冠を茶化すことができないほど大真面目で画期的で悲願の出来事だったのである。
”純”を達成した当時の偉業の詳細は、各種メディアやプロジェクトXなどで何万回も語られているので省くとするが、それにしても実に63年とは長い。

この間、単一のモデル名で生き残っているクルマはそう多くない。あのポルシェ911だってまだ50年半ばを経過したところ。ギリギリでクラウン先輩にタメ口をきけるのはシボレー コルベットとトヨタ ランドクルーザーぐらい、と言えばその壮大さをわかっていただけるだろうか。

それでもピンと来ない方もいらっしゃるはず(それが当然だ)なので、1955年に誕生したモノや著名な方々を見て、時代の距離感を確認していただきたい(敬称略)。
集英社「りぼん」、ぺんてるくれよん、アーモンドグリコ、ケビン・コスナー、所ジョージ、スティーブ・ジョブス、鳥山明、村上ショージ、世良公則、松山千春……。
どうだろうこの並び。燃えろいい女、ドゥーン、Dr.スランプ、長い夜、そしてクラウン。とてつもない組み合わせだ。

しかし、こうして眺めてみるとまだ現役感があるのも事実。70年目など誤差の範囲だと思えてくる。まだまだ続投できそうな頃合いと言ったら極端だろうか。
クラウンの進化はたぶん続いていく。誰も見たことがない100年目のモデルチェンジに向け、まだまだ進化していくに違いない。

 

  

リビングで愉しむクラウン

クラウンは大きい。歴史も長いし敷居も高い。その重みにやられてしまいそうだ、とお悩みのあなたにはカタログやミニカー、各種非売品などがオススメ。
人気車種ゆえ商品数は星の数。限られた土地の中で自分好みの王宮を建造することができるでしょう。

101万4860円で始まった王国(初代〜5代目)

101万4860円で始まった王国(初代〜5代目)

アメリカ車の縮小版とも言われた初代

初代のコロッとした形状からは似ても似つかぬ2代目の、低く長くシュッとした現代的セダンへの唐突な変化が注目ポイントだ。
その間7年。同窓会で再会するまでいったい彼に何があったのか? ギョッとしながらもいらぬ詮索をしたくなるクラスメイトの変わりようを彷彿とさせる。

それはともかく「ニッポンの”いいクルマ”はこうあるべき」という価値基準を築き、5代目にバトンを渡す1974年までの約20年で他社のライバルに及ぼした影響は大きい。
白いボディカラー、スポーティにもフォーマルにも見えるデザイン、適度にデラックスな装備、クッションの効いた乗り心地、時代の先端技術を有すること……。
これら「クラウン的価値観」はのちにカローラやコロナに受け継がれ、ニッポンのクルマ文化を醸成、席巻することになる。

「ジドーシャ」を家庭で所有する発想がゼロの時点からコツコツ始めた話だ。クルマが溢れている現代ではこのインパクトは共感しづらいかもしれない。
では「クルマ」を「携帯電話」に置き換えてみよう。
高画質なカメラがついていなければダメ、色やデザインがいい、歩きながら使わない、大声で話さない等々。”ケータイ”を選ぶ基準やルールが少しずつ決まっていく様子は、初代クラウンが登場した1955年からの約20年と共通した熱を帯びているように思える。

盤石の体制で世の中を席巻

盤石の体制で世の中を席巻
今や「マイコン」と発するだけで「うわぁ(笑)」もしくは「なんですか? それ」と失笑されてしまう世知辛い世の中だが、80年代は本気だった。
刑事ドラマのニックネーム(太陽にほえろ!※なんと石原良純だ)にまで採用されるぐらいの市民権を得ていたと言ったら驚くだろうか。

ニッポンはそれらの技術で世界をリードし「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の名を欲しいままにしていたのだ。 クラウンもその例に漏れずマイコンを使った電子制御技術を積極採用し、ライバルと熾烈な戦いを展開していたのだった。
マイコン制御オートエアコン、エレクトロオートコンパス、電子チューナーラジオ、クルーズコンピューター、電子制御サスペンション……。先進技術をクラウンへ自然に採用する伝統は受け継がれていた。

当時の世はバブル到来の黄金時代。オジサン・オバサンたちが目を細めて懐かしさに浸るのはだいたいこの時期のこと。甘美で万能感に溢れていた。信じられないほどの好景気。若者のフトコロも低温ヤケドをするほど暖かかったから、お金の使い道は自然とクルマに流れていった。

ソアラの投入とマークII3兄弟という決定打でトヨタは”ハイソカー盤石体制”を敷き、若者を次々と囲い込み虜にしていったのである。その余波はクラウンにも押し寄せた。ユーザーの平均年齢が下がったのである。すでに当時「オジンのクルマ」の代名詞となっていたクラウンにとってはありがたい恩恵だったに違いない。
その勢いはバブルの終焉とその余韻が残る数年間まで続いたのであった。

王の真価が試されるとき

王の真価が試されるとき
9代目が登場した1991年は奇しくもバブルが崩壊した年である。
セルシオと同じV8エンジンを搭載した「マジェスタ」と、正常進化版「ロイヤル」の2本立てで展開されるあたり、まだまだバブルの余韻を感じさせた。
その仕上がりも潤沢な資金で仕立て上げられたことが如実に理解でき、正常進化した内容を含めてユーザーに好評をもって迎え入れられる、はずだった。
しかしフタを開けてみれば「ロイヤル」が大不評の滑り出し。
モッサリしたプロポーションと押し出しの弱さ、そしてリアのナンバープレートがバンパー部分に収められていたことがトドメを刺すカタチとなってしまった。それは4代目「クジラ」クラウンを彷彿とさせる90年代のトヨタとしては珍しい失敗。キッチリ1年後にリアビューの改修を行うことで、なんとか面目を保ったのである。

モデルチェンジにより、空調やオーディオスイッチの配置を動かしただけでも旧来オーナーから文句が出る、なんて話がまことしやかに囁かれたのもこの頃であった。
80年代に若返りが起きたとはいえ、圧倒的な保守層に支えられていたことがよくわかるクラウンらしいエピソードである。
それは同時に、従来のクラウン的な成功の方程式と世界観が次第に成り立たなくなっていることを表していた。
演歌調よりグローバル。確実に時代は動いていた。

1995年頃からはメルセデス・ベンツCクラスやBMW3シリーズが購入しやすい、クラウンとほぼ同じ価格帯になったことも大きい。
さらにアリストの登場やセルシオの定着など、ユーザーの選択肢が広がったことで、クラウンを新たに選択する理由がますます薄まっていった。
変革か保守か。分岐点に差し掛かった時期でもある。

変革の幕開け

変革の幕開け
クラウン誕生からほぼ半世紀が経過しようとしていた2003年。分岐点に立つトヨタはクラウンを「変革」の方向へと思い切り舵を切った。
保守でがんじがらめになっていたプロポーションは、書道の「とめはね」からインスピレーションを得た力強いサイドビューで表現。
「和」と「クラウンらしさ」を過剰なメッキや大きなグリルに頼らずとも表現できることを証明した。まるで社会人デビューか? と思うほどの変貌ぶりは「ゼロ・クラウン」の名にふさわしい。

その後もクラウンは積極的に変革を取り入れていく。
「ゼロ・ツー」と称された13代目では、マイルドではない本気のハイブリッドシリーズを展開。「ロイヤルサルーン」「アスリート」に続く3本目の柱として立派に成長させたのである。

ここまでやれば21世紀もしばらくは安泰。守りに入っても大丈夫でしょう、とトヨタは思わなかった。
国産セダンが瀕死傾向となっている現状のなか、14代目でもファイティングポーズを崩さない。さらに攻めへと打って出たのである。
まるで「メジャーリーグ」に登場するチャーリー・シーンのうなじのようなイナズマグリルは、登場前から「すわ失敗作か!?」「冗談でしょう?」とさんざん物議を醸し出したことを思い出す。
しかし、街を眺めてみればくだんのイナズマグリルのアスリートの方をよく目にするのだから世の中は変わったものである。

60数年にわたり新しい技術で市場をリードする一方で、保守の代名詞でもあるクラウンは、時代と寄り添いながら今でもわれわれが気づかないうちに粛々と変化を取り入れ、前進しているのだろう。

あとがき:80年代中期のクラウンに乗ったとき、エアコンのルーバーが自動首振り状態になっていたのを見て激しく驚いたことを思い出します。最先端テクノロジーだ! お大尽のクルマすごい! と興奮したものです。(クラウンなど遠い夢 庶民・YT)

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